「虐待」事案が、裁判ケースになって、その罪の重さをはかる際には、
① 「虐待」か「しつけ」か、どういう「認識」であったのか?
② 命の危険を認識していたか? いつ(どの時点で)認識していたか?
が、争点となります。
●そもそも、その行為自体を「虐待」だと認識していたのか?
●命の危険があるとわかっていたのか? それをどの時点で感じたのか?
が、罪の判断には、大きく関わるということです。
この2つの「認識」
「虐待をしてしまう人」と「行わない人」
そこに 大きな 違いはあるのでしょうか?
おそらく、そんなに大きな認識の「差」はないのだと思います。
どちらの人であっても、
・その行為自体を「しつけ」と思っている。(虐待は悪い事だとわかっている)
・こどもの様子や表情から「命の危険」がある瞬間はわかる。
その2つは、それほど 変わらないはずです。
では、何が 決定的に違うのか?
それは 「過剰」であること です。
「行き過ぎであること」「やりすぎであること」
そのバランスをコントロールできないこと。
それが、大きく関わってくるのです。
「求めすぎ」「考えすぎ」「こだわりすぎ」
「過ぎること」
これを自覚できているか、そして「オーバー」したものをコントロールできるか
そこが 重要な課題 となるのです。
保護者の方の面談や継続的なセラピー(認知行動療法)の中で、
毎回のテーマとしていることが、この「過剰」について です。
「過剰である」ライン を共に話し合い
そのラインを超えてしまいそうな時に、何を思い出して どうコントロールするか
そこを継続的に話し合います。
これが、実際のセラピー場面での「テーマ」です。
虐待としつけの違いを説明したり、
命の危険の判断基準を話し合ったりするのでは ありません。
●自分自身の「過剰である」傾向を認識すること。
●なぜ「過剰である」必要があるのかを認識すること。
●それを コントロールするための「トリガー」を認識すること。
この3つを 具体的に話し合うことが、虐待を避けるためのセラピーのテーマになります。
時に、
配偶者や恋人に対する「過剰な期待」
世の中や周囲の人に対する「過剰な期待」
そうしたものも同時に考えます。
「期待すること」は、人が生きていく上で とても大切なものです。
でも、その期待が「過剰な期待」になると
人は、自分の中に「モンスター」を作ってしまうのです。 (げんき)